2009/2/22

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art drops インタビュー 2008 vol.4  テーマ:「現実と虚構の狭間」 ドイケイコ

釣崎清隆さん/写真家・映像作家 ―前編―

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強烈な現実を表現しつづける理由

日本で唯一の“死体写真家”である釣崎清隆さん。誰にでもおとずれる「死」という現実について改めて思い出させる作品は、ずっと観ているとだんだん非現実のもののように思えてくる。自身の強烈な作品世界をどのようにとらえ、何を目的としてつくりつづけているのか。気になる核心に迫ってみた。

 

 

■ ショッキングな映画からの影響

1966年、釣崎清隆さんは富山県に生まれる。10歳の時、ある映画を観たきっかけで将来の方向が決まった。

「『ジョーズ』のロードショー公開が凄く衝撃的で、どうしても観たくて初めて1人で劇場へ足を運んだ。当時のショック映画が今の仕事の素地になってるかな」。
そして、自然と「映画監督になりたい」と思うようになった。

中学生になり、一層、映画館へ足を運ぶようになる。
「田舎の子なんで、映画以上にドキドキする娯楽もなくてよく観に行ってた。『ジャンク(※1)』とか劇場に弁当持ち込んで一日中見てたね」。

そして、高校1年生のころから自主映画を撮り始める。

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■ バブル時代の異質な存在

初めて撮影した作品とは一体どういうものだろう。
「ATG(アートシアターギルド)(※2)みたいな暗いやつ」。

釣崎さんの世代は、作り手としてビデオとフィルムの両方に触れた最初の世代でもあるという。時代はバブルへ突入し、彼は慶応ボーイになった。
「学校が学校だったからかもしれないけど、あの当時、自主映画は冬の時代でね、ひとつのことに打ち込むこと自体がバカにされる時代だったよ。けど、そんな風潮に疑問を持つ奴ってのもいるもので、自然と集まって仲間になったね。
ただ、自分の周りに志を同じくするライバルがいなかったのは残念だった。行く学校を間違えたかな、と思ったりもした。まあ、時代のせいもあるだろうけど、今思えば日芸とかに行っておけば良かったかなとも思う。もっとも田舎の労働者家庭の子があんな偏差値が低くて学費の高い都会の学校を受けること自体、絶対に許されなかっただろうけどね」とも言う。

 

 

■ 日本の映像文化が変わるだろうと思った場所

大学生の時、雑誌でアダルトビデオ(AV)のレビューを書いていた。
「サークルの先輩の紹介でライターになったんだけど、とにかく毎月平均約50本の作品を観ていて、ひとつの文化圏ともいえるAVのクリエイティビティーに衝撃を受けた。とくにV&Rプランニングは人権団体と一悶着あったり、宮崎勤事件で話題になった『ギニーピック』をリリースしていたことでも知られるエキサイティングなメーカーだった。あと、SMビデオの老舗会社シネマジックの作品は洗練されてて好きだった。ちょうど日活ロマンポルノが無くなった時期で、技術はあるのに仕事を失ったスタッフの受け皿になっていた。その当時僕はAVから日本の映像文化が変わると確信したんだ」。

大学卒業後は「V&Rだけはやめて」と彼女に泣きつかれてシネマジックに入社。また、釣崎さん自身は作家主義的スタイルなことから、ドキュメンタリズムが持ち味のV&Rでなく、ドラマ志向のシネマジックの方が向いているだろう、と思ったのだ。
「厳しい環境だったけど、いつかまた一緒に作品をつくりたい、と思うスタッフばかりだった。あと、その後結局はV&Rともつながることになったし」。

それから2年半後、AV業界に限界を感じ始めたころに、大きな出会いが訪れる。
「シネマジックの社長、横畠邦彦氏がかつて雑誌編集者だった時代の後輩、小林小太郎氏がSM雑誌を創刊することになって、コラボレーション企画で会社によく出入りしていた。彼の依頼でタイで死体の写真を撮りに行くことになったんだ」。
本当は会社を辞めてハリウッドに行こうと思っていたという。
「どうせ海外に行く気ならタイに行かないか、という話になったんです。お金もなかったのでその話を受けて、タイで撮影し、その後でロサンゼルスに行った」。
タイでの死体撮影は、最初からかなりうまくいった。
「次はどこに行く? という話になって、ロサンゼルスから近いということで、コロンビアへ行くことになった」。

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『死体に目が眩んで 世界残酷機構』 著者:釣崎清隆

これまで撮影した死体は1000体以上ともいわれる釣崎さんが、タイ・コロンビア・ロシア・メキシコなど世界各国の殺戮地帯を渡り歩いた記録。 自身の文章と死体の写真で構成されている。写真の中でも、交通事故のためちぎれた、指輪の付いた女性の腕は印象的である。

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※1 ジャンク:1979年に日本で公開された映画の第一作『ジャンク 死と惨劇』は、“死”をテーマにしたエポックメイキングなのショックメンタリー映画。アメリカ映画とされているが実は日本のAVメーカー、V&Rプランニングの社長、三枝進氏が今はなきドキュメンタリー制作会社テレキャスジャパンの社員時代にプロデュースした日本映画。

※2 ATG(アート・シアター・ギルド):1961年から1980年代にかけて活動した日本の映画会社。他の映画会社とは一線を画す非商業主義的な芸術作品を製作・配給し、日本の映画史に多大な影響を与えた。また、後期には若手監督を積極的に採用し、後の日本映画界を担う人物を育成した。

 

>>釣崎清隆さんインタビュー の後編はこちら

 

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