2008/3/15
art drops 第12回 インタビュー
3月:口=伝える 宮島達男さん(アーティスト) ―前編―
伝えつづけたいのはシンプルだけど重要なこと
今年、国際デビュー20周年を迎え、いまや日本を代表する美術家の一人とも言われる、宮島達男さん。LEDを使用した数字の作品をずっとつくり続けており、そこにはしっかりとコンセプトが込められている。一見シンプルだが、「伝える」ことを強く感じさせる作品を生み出す宮島さんとは一体どういった方なのか。その内面を探ってみた。 |
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■芸大入学までの長い道のり
1957年、宮島達男さんは東京都江戸川区に生まれる。幼少期は、「極めて普通」。近所の友達と野球や釣りなどに明け暮れる毎日で、当時の夢は「甲子園に行くこと」であった。しかし、中学3年生の時に入院。また、出席日数の関係で中学3年生を2回送るなど、体が弱く断念した。
体の弱さを感じつつも、高校生のころは大工である父親の跡を継ごうと考え、早稲田大学の理工学部を目指す。
そんな宮島さんが、なぜ芸術家を志すようになったのだろう。
「ちょうど高校2年生の時、美術学部の部長になったんです。それがきっかけでしょうか」。
そして、佐伯祐三、坂本繁二郎、青木繁といった芸術家に憧れを抱くようになる。
「なんかこう、彼らには自由な空気があるじゃないですか。夢とか野望があって、喀血してパリに死す、みたいな。そういうかっこ良さに憧れたんですね」。
笑顔で語った。
早速、東京藝術大学に入ろうと勉強するが、それまで特に準備もしてなかったため不合格。
浪人するも、その年に現代美術の洗礼を受け、美術への考えが変わる。
「ポロック、ニューマン、ロスコなどの作品に感化されたんです。普通に描いていたことがばからしく思えてきて、これからはこっちの美術だ!と、変な風に描くのが楽しくなってきました。芸大の試験時には、赤い絵の具をタラーと床に垂らして『審査してください』と言って帰るような、不遜な学生でしたよ(笑)」。
結果、またもや不合格。
その後、宮島さんは「俺の才能を認めない芸大が悪い」と考え芸大受験を辞めて、気象観測のデータを扱う会社に勤務。
しかし、ふたたび芸大を目指すことになる。
「そのころの日本はね、コンセプチュアル・アートの末期だったんですよ。本当につまんなかった。それで、このままじゃ日本は駄目になる、俺が変えてやる!と思ったんで」。
とにんまり。
当時も相変わらず変なことが好きで好きで仕方なかったが、芸大へ入学するには最低限の描写力など必要であったため、自分の気持ちをぐっと抑えて必死に努力する。
「予備校の先生に『普通に描きます!』と宣言して、部屋には「普通に描く」と書いた紙をはり、頭を坊主にまるめて、本当に真面目に取り組んだんです」。
それが功を奏してか、翌年、芸大へ合格。
高校を卒業して4年目の春だった。
■オリジナリティの追求と伝えつづけることの大切さ
東京藝術大学へ入学した当初から「作家として生きて行く」と標榜した。
「とにかく、他の人がやっていないこと、かつ自分自身の内面をちゃんと伝えていける表現をしたかった」。
そして、選んだ表現はパフォーマンス。
肉体の表現はオリジナリティがあるし、世界でも勝負ができるだろう、と思ったからだ。
しかしある日、秋葉原の電気屋街で8の字のLEDに出会った。
「時計に使われるわけでもなく、目的がなく部品として売られている8の字のLED※1が、無意味にチカチカ光っていたんです。その様が、愛おしいというか、命の鼓動のように感じたんですよね」。
それから、ずっとLEDによる数字の作品をつくり続けている。
果たして、飽きないのだろうか。
「それは、野球をずっとしているイチロー選手にバスケットをやってみたいと思いますか?という質問と同じだと思いますね。
私が伝えたいことは、シンプルだけどとても重要なことです。わずかな自分の言葉をオリジナリティを持って伝えるために数字を選んだ。数字は、いまや私の肉体となっています。それを使わないということは、“宮島達男”を降りる、ということになるんですよ。飽きるということは、単なる感情ですね」。
数字を使っての制作は、単なる感情を遥かに超えた行為であった。
また、宮島さんの言う「シンプルだけどとても重要なこと」とは、一体何なのだろう。
「たとえば、人を殺してはいけないとか、命の素晴らしさ、人間の無限の可能性についてなど、大切なことだけど時々忘れたりすることです。
だから、繰り返さないと伝わらない。時代が変われば、次の時代の人達に伝えないといけないですし」。
そして、宮島さんには数字だけでなく、人生を方向づけている3つのコンセプトが存在した。
※1: 8の字のLED Changing Time with Changing Self No.13 |
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■3つのコンセプト
「それは、変化しつづける」、「それは、あらゆるものと関係を結ぶ」、「それは、永遠につづく」
これが宮島さんの3つのコンセプトである。
この言葉が導かれるまでには、相当な苦悩があったと言う。
「大学院卒業後、食べていくために今度は出版社へ勤務し、働きながら制作に励んだのですが、2年目になると疲れてくるんですよね。
当時は自分の言葉もなく、評価されることもなく、つくっていても、なんかこう虚しいわけですよ。
それで、ある時、『分かった!日本にいても評価されないからフランスへ行こう!』ってなったんです」。
そして、フランスの留学試験を受ける。
結果、不合格。
いよいよ逃げ場がなくなり、「この東京で勝負するしかない」と追いつめられた。そして、ちょうど数ヶ月後に自ら企画した個展が控えていたので、そこで今後の自分の方向性を決めよう!と決意する。出版社に1ヶ月ほど休みをもらい、考えに考え抜いた。フランスの現代哲学、仏教哲学、教養的思想などを参考にしたり、とにかく自分の言葉を模索する。
そしてできたのが3つのコンセプト。
「3つのコンセプトが出来た時は、とても嬉しかった!
今後、自分はこれがあれば作品をつくり続けられる、と思ったんです」。
コンセプトを伝えるという目標が決まり、創作活動への意志も大きく変わる。
「自分で決めた唯一無二のもので人と比べる必要がないから、他者に評価されて安心を得る必要もなくなりました。
ただただその道を追求して、そこに向かって努力をしていけばいいだけ」。
これまでヴェネチア・ビエンナーレの日本代表になったり、いくつも美術の賞を得てきたが、宮島さんにとって、外部からの評価とは、たまたま付いてきただけのもののようだ。
「もし誰にも評価されていなくても、この3つのコンセプトを突きつめて表現しきれるまで、他に仕事をしながらでも作品をつくり続けてきたでしょう」。
Mega Death 1999 LED, IC, electric wire, sensor, etc h.4.5 x 15.3 x 15.3 m (installation) Installation view at the Japan Pavilion, The 48th Venice Biennale Photo : Shigeo Anzai Courtesy of the Japan Foundation, Shiraishi Contemporary Art Inc. |
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1999年に宮島さんがベネチアビエンナーレに出展した MEGA DEATH は、2,400個のガジェット(発光ダイオードによるデジタルカウンターのユニット)が、幅34メートル、高さ6メートルの壁面を埋め尽くす。20世紀の総括というテーマで制作されこの作品は「人為的な大量死」を意味し、青い光は、まだ生きることのできた生命の沈痛な叫びのようにも感じることができる。
他に仕事をしながら創作活動をしている人。
そういった人たちは、たくさん居る。素晴らしい作品をつくるのに、宮島さんのようには評価されない作家たち。
「他人の評価で“作家である”ということは、ありえない」。
宮島さんははっきりとした口調で断言した。
「あくまで、昨日の自分と今日の自分が基準ですよ。作家であり続けることは、自分のテーマを掘り下げ、努力して追求しつづけることではないでしょうか」。
目の前にいるのは、世界的に評価されているアーティストというよりも、自分の課題に真摯に向かって生きている、ひとりの真面目な人間だった。
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